第二章 ゼロ区画
黒田が調査報告書の第一稿を航法局に送ったのは、発見から九十六時間後だった。
報告書には技術的な所見を中心に記した。電力異常のログ分析、船内各所の状態記録、乗組員の個人データとの照合。しかし電力ログの数列については、報告書に書かなかった。その数列が外部からの信号である可能性を示唆した場合、捜査が全く別の方向に向かうことを黒田は予感していた。政治的な判断が介入し、技術的な調査が二次的になる。それを避けたかった。まず自分で確かめたかった。
早川の証言をもとに、黒田は船内の徹底的な再調査を行った。七人の乗組員の居住区を一つずつ調べた。個人端末の通信記録、行動ログ、健康管理システムのデータ。全員が前日まで通常通りの生活をしていた証拠が残っていた。睡眠時間、食事量、運動記録。異常はどこにもない。
船長の佐藤という人物の部屋で、一つだけ気になるものがあった。
引き出しの奥に、折りたたまれた紙が一枚入っていた。印刷ではなく、手書き。黒田と同じように、デジタルではなく紙に書いたということだ。そこには数列が書かれていた。電力ログの数列と、同じパターンだった。つまり船長の佐藤は、すでにこの数列に気づいていた。おそらく通信断絶の前に、電力ログの異常を発見し、これを解析していた。
ではなぜ報告しなかったのか。
黒田はその答えを、早川に求めた。
「船長が電力ログの異常に気づいていたはずです。あなたに話しましたか」
早川はしばらく黙ってから、「話した」と言った。「消える三時間前に。船長が俺のところに来て、これを見ろと言った。数列を見せられた。何だと思うかと聞かれた」
「あなたは何と答えた」
「わからないと言った。でも船長は、これは呼びかけだと言った。誰かが、俺たちを呼んでいると。数列を音に変換したと言っていた。特定の周波数に変換すると、音楽のようなものになると。実際に聞かせてもらった。確かに音楽のようだった。不思議な、聞いたことのない音楽だった」
「その音楽を聞いたのは、船長とあなただけですか」
「全員が聞いた。船長が全員を集めて、聞かせた」
「全員が聞いて、あなただけが残った」
黒田は自分の端末で、数列を音に変換するプログラムを組んだ。三時間かかった。完成したプログラムを起動し、イヤホンで聞いた。
音が流れてきた。それは確かに音楽のようだった。しかし人間の音楽とは何かが違った。拍子がない。メロディーとも言えない。しかし不快ではない。むしろ引き込まれるような、心の中に染み込んでくるような音だった。
黒田は二十秒ほど聞いて、イヤホンを外した。何も起きなかった。消えなかった。
しかし、何かが残った。外の漆黒の空間が、以前より深く、以前より豊かに感じられる。まるで空間そのものが、薄い膜を一枚取り除いたように、鮮明に感じられる。
「早川さんは、あの音楽を聞いて、何を感じましたか」
「帰りたいと思った。どこか遠くに。今いる場所が、本当にいるべき場所ではない気がした。どこか遠くに、本当の場所がある気がした」
「光が満ちたとき、他の六人の顔はどうでしたか」
早川はゆっくり目を閉じた。「怖がっていなかった。全員が、穏やかな顔をしていた。まるで、ずっと待っていたものが来た、というような顔を」
その夜、黒田は夢を見た。宇宙の端まで続く、光の道。その先に何かがある。来い、という声がした。言葉ではなく、振動として。
目が覚めると、船内は静かだった。早川が操縦席から黒田を見ていた。
「夢を見ましたか」と早川は言った。
「ああ」
「俺も毎晩見る。同じ夢を。あなたも今日から毎晩見ることになる。あの音を聞いた全員が、同じ夢を見た。消える前の夜も、全員が夢を見たと朝に言っていた。俺だけが残ったのは、俺だけが夢に従わなかったからかもしれない」
「なぜ従わなかったのか」
早川はゆっくりと目を閉じた。「光が満ちたとき、俺にも同じ感覚があった。遠くへ行きたい。でも俺は、足を踏ん張った。なぜかはわからない。ただ、まだここに残るべきだと思った。誰かに、ここで待てと言われた気がした」
「誰かに」と黒田は繰り返した。
「あなたを待て、と」

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