静寂の航路
第一章 漂流記録
宇宙船「オリオン・ゲート7」が通信を絶ったのは、木星圏外縁部を通過してから十四時間後のことだった。
宇宙航法局の記録によれば、最後の通信が入ったのは二〇六三年の三月十一日、午前三時二十二分。乗組員七名全員が記録上は「健在」のステータスを示したまま、その後の全ての接触が途絶えた。捜索艇が現場に到着したのは通信断絶から四十八時間後で、発見されたオリオン・ゲート7は内部に損傷なし、推進系も生命維持装置も正常稼働、しかし乗組員七名のうち六名が姿を消していた。
ただ一人残っていたのが、航法士の早川凌、二十七歳だった。
早川は船の中心部にある操縦席で発見された。意識はあったが、発見時から四十八時間にわたって一切の発言を拒んだ。食事は摂った。水も飲んだ。しかし何を聞いても、ただ宙を見つめるだけだった。
宇宙航法局の特別調査官として現場に派遣されたのが、黒田誠司、二十九歳だった。
黒田は宇宙犯罪捜査の専門家ではなく、元々は宇宙船の設計エンジニアだった。しかし三年前に設計部門から転職し、今は航法局の技術調査部に所属している。設計の知識を持つ調査官は希少で、特に今回のような「技術的に説明のつかない」事案では重宝された。
黒田がオリオン・ゲート7に乗り込んだのは、発見から七十二時間後だった。
船内に入って最初に感じたのは、静けさだった。
宇宙船の内部というのは、常に音がある。生命維持装置のファンの音、配管を流れる液体の微細な振動、推進系の低周波のうなり。人間の耳にはほとんど聞こえないが、体が感じる振動がある。しかしオリオン・ゲート7の船内は、それが違った。全ての機械は正常に動いているはずなのに、音が、薄かった。まるで音が吸われているような奇妙な静けさだった。
「早川さん」と黒田は声をかけた。
早川は操縦席に座ったまま、前を向いていた。四十八時間以上同じ姿勢でいたとは思えないほど、体の状態は良好に見えた。
「俺は黒田といいます。宇宙航法局の技術調査部から来た。何があったか、話してもらえますか」
早川は黒田を見た。目の焦点は合っていた。ただ、見ているというより、見透かしているような、奇妙な視線だった。
「……消えた」と早川はようやく言った。最初の言葉だった。
「六人が、ですね」
「消えた。形も残らずに。音も立てずに」
「どこに」
「わからない」
「どうやって」
早川はまた黙った。しかし今度の沈黙は、拒絶ではなく、言葉を探しているような沈黙だった。黒田はじっと待った。宇宙の空間が教えてくれたことがあるとすれば、それは待つことの意味だった。
「見ていた」と早川はようやく言った。「消えるところを。俺は見ていた。でも何が起きたのか、説明できない。見たものを、言葉にできない」
「見たものを教えてください。言葉にならなくていい。見たものだけを」
早川は目を閉じた。
「光だった。船内に光が満ちた。外からではなく、内側から。壁から、床から、天井から。全部が光った。白い光で、眩しくはなかった。柔らかい光だった。そして、光が消えると同時に、みんないなくなっていた」
「あなた一人だけ残った理由は」
「わからない」と早川は言った。「気づいたら一人だった」
黒田は船内の調査を始めた。
六人分の荷物は全て残っていた。スーツ、食料、個人用の通信端末。飲みかけのコーヒーが残っているカップさえあった。途中まで書かれた日記がある。脱出ポッドは全て未使用だった。船外活動用のスーツは七着とも格納庫にある。
物的証拠だけ見れば、六人は船の中にいるはずだった。しかしいない。
黒田は技術ログを調べた。通信断絶の直前、船内の電力系統に一瞬の異常が記録されていた。時間にして〇・〇〇三秒。通常のシステムなら誤差として処理される程度の微細な揺らぎ。しかしその揺らぎのパターンが、黒田には引っかかった。
電力の揺らぎは、ランダムではなかった。
数値を並べると、そこには規則性があった。繰り返す周期、一定の振幅のパターン。まるでコードのように。
黒田はその数列を紙に書き出した。航法局から持参したノートに、手で書いた。デジタルデータは改竄の恐れがある。自分の手で書いたものだけを信じる、というのが黒田の習慣だった。
数列を眺めながら、黒田はある可能性に気づいた。
これは外部からの信号ではないか。
宇宙船に向けて発せられた、何者かによる信号。電力系統を通じて船内に侵入し、乗組員に何らかの影響を与えた信号。しかしそれは、誰が、あるいは何が、発したのか。木星圏外縁部に、信号を発する人工物は存在しないはずだった。少なくとも、人類が把握している範囲では。
黒田はノートを閉じ、窓の外を見た。漆黒の宇宙が広がっていた。無数の星が光っていた。その中のどれかが、この船を見ていたのかもしれない。
「早川さん」と黒田は再び声をかけた。「もう一つだけ聞かせてください。光が満ちたとき、音はしましたか」
早川はゆっくりと首を振った。
「音はなかった。でも」
「でも?」
「感じた。何かが、語りかけてきた。言葉ではない。でも何かを伝えようとしていた。俺にだけ、伝えようとしていた」
「何を」
早川は黒田を見た。その目に、初めて感情のようなものが宿った。
「来い、と言っていた」と早川は静かに言った。「来い、と」

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